国家公務員の残業が深刻だという話は、ニュースなどで見た記憶もあり、なんとなく認識はありました。でも、だからどうという考えもなく、どこか他人事でした。自分には関係のない世界の話。
本書を書店で見かけて、タイトルのインパクトもあり、手に取りました。帯に書いてあった1行が非常に目を引きました。
「朝7時、仕事開始。27時20分、退庁」
27時、午前3時20分。
問題は、単なる官僚の働き方の話だけではない。その先に、我々国民の暮らしがつながっているということです。
作品概要・著者紹介
『ブラック霞が関』は2020年11月、新潮新書から刊行されました。240ページ。価格は780円(税別)。新書としては標準的な分量です。
著者の千正康裕(せんしょうやすひろ)氏は1975年生まれ。慶應義塾大学法学部を卒業後、2001年に厚生労働省へ入省しました。医療・年金・子育て・働き方など社会保障・労働分野を中心に、18年のキャリアで8本の法律改正に携わっています。インド大使館勤務や大臣秘書官も経験し、2019年9月に退官。その後、株式会社千正組を設立しています。
現役のキャリア官僚ではなく、退官した人間が書いているというのがポイントだと思います。内側にいたからこそ知っている事実と、外に出て、外から内部をみて感じる本音が、この本には含まれています。退官したからこそ、書けた部分も多くあると思います。
あらすじ
霞が関の実態:数字が語るブラックの程度
本書は、霞が関の労働実態を数字で示します。過労死ラインとされる年間1000時間超の残業をこなす職員が約半数。しかもその大半がサービス残業だといいます。国会会期中は深夜まで議員からの問い合わせに対応するため、部署によりますが、議会対応に明け方近くまでかかることが常態化しているようです。
厚生労働省で妊娠中の職員が過労による早産で救急搬送された、という話も出てきます。働き方改革を率先して進めるべき行政が、かなりブラックな職場になっているという矛盾が明確に伝わってきました。
なぜこうなったのか:構造的な問題
残業が減らないのは、官僚個人の問題ではありません。著者が訴えているのは構造です。国会対応のための不毛な待機残業、乱立する会議、旧態依然とした紙文化、そして議員などからの急な要求に即応しなければならない「下請け的関係性」。
少子高齢化・グローバル化・デジタル化と、行政が対応すべき課題は増え続けているのに、公務員の数は先進国の中でもとりわけ少ない。仕事は増えているのに、人は増えない。そこにコロナ禍が重なりました。
崩壊の連鎖:採用難と離職のスパイラル
ブラックな職場環境は、優秀な人材の流出を招きます。休職者・退職者が増えれば、残った人間の負担はさらに重くなります。採用難が続けば、将来の政策立案能力そのものが失われていく。著者が警告するのはこの連鎖です。
霞が関の問題は官僚だけの問題ではない。政策の質が下がれば、最終的に困るのは国民だ、それがこの本の核心でもあります。
提言:霞が関と永田町への20の改革案
後半では、著者が具体的な改革案を提示します。霞が関への10の提言、永田町(国会)への10の提言、合わせて20項目。国会の質問通告のルール化、答弁作成の効率化、デジタル化の推進など、現場を知る人間ならではの提案が並んでいます。具体的で納得のいく提案だと私は感じました。
登場人物・組織
本書はノンフィクションという性質のみならず、著者自身の経験をもとにした提言書の性格が強いです。特定の「登場人物」が物語を動かすわけではありませんが、著者が共に働いてきた、または見聞きした人々の登場が実態を露わにします。
- 千正康裕(著者)——厚労省での18年間を振り返る語り手。法律改正の現場、海外赴任、秘書官経験など、複数のポジションを経験してきた当事者として、制度の内側と外側を行き来しながら語ります。自分の失敗や葛藤も隠さないところが、読んでいて説得力があり、信頼感につながります。
- 厚生労働省の職員たち——個人名はでませんが、著者の語りの中に、彼らの働き方の様子がリアルに描かれ、本書全体を一定の緊張感で満たす役割を果たしています。
- 国会議員——質問の通告や資料請求をはじめとする、官僚の業務量に大きく影響を与える側として描かれます。もちろん悪意があるわけではなく、慣例の中で動いているだけだ、と著者は書いています。そのことがかえって問題の根深さを示しています。
- 民間・NPO・現場の人々——著者が政策の現場で出会った人たち。政策が実際の生活にどう届くか、あるいは届かないかを教えてくれた存在として登場します。
主役は特定の人物ではなく、「霞が関」という組織そのものです。個人の善悪の話ではなく、構造の話なのです。
テーマと読みどころ
「働き方改革」の旗を振る行政が最もブラックという逆説
厚生労働省は、企業の長時間労働を抑制する立場です。ブラック企業に目を光らせる組織が、自らはその基準をはるかに超えた労働環境にある。著者はこの矛盾を正面から書いています。笑えない話ですが、笑えない理由が構造的に説明されると、怒りよりも先に「なるほど」という納得感を覚えます。
自分の職場で「残業が多い」と感じたことがある人なら、霞が関の話は他人事に聞こえないはずです。規模は違っても、「なぜ変わらないのか」という構造は、案外似ています。
官僚はなぜ必要なのか、という根本的な問い
SNSでは官僚批判が絶えません。税金の無駄遣い、天下り、省益優先——そうした批判が正しい部分もあることは著者も認めています。ただ本書が指摘するのは、官僚を叩けば政策が良くなるわけではない、という点です。
民間企業は「利益」という明確な指標がありますが、行政はそうではありません。「国民厚生」という抽象的な目標のもとで、複雑な利害調整を行いながら政策をつくる。その仕事は、誰かがやらなければならない。では、誰がやるのか。その問いを読者に残す構成になっています。
政策は現場から生まれる——でも現場に行く余裕がない
著者が経験した法律改正のエピソードでは、良い政策をつくるには現場を歩くことが欠かせないと言っています。しかし今の霞が関には、その時間がない。残業対応に追われ、会議に追われ、国会対応に追われていると、「現場を見る」という最も重要な仕事が後回しになっていきます。
これは行政に限った話ではないかもしれません。忙しい組織ほど、本来一番大切なことができなくなる。その構造が、官僚の世界でも起きているという話です。
2026年現在、公務員のなり手不足は深刻化の一途をたどっています。本書が書かれた2020年からさらに状況は悪化しているとも聞きます。5年前に書かれた警告が、今になってなお、有効であるくらい、改善されていません。
個人的感想・評価
「霞が関が崩壊したら、最終的に困るのは国民だ」という主張は、「少し大げさでは」と思いました。しかし、行政機能が低下したときに何が起きるかは、コロナ禍における騒動である程度体験し、実感したところです。「対応の遅さ・混乱」に対する世間の批判は大きいものでしたが、そのシステムを支える人たちが限界の状態にあったことを知らなかったからこそでもあるでしょう。読後はそういったことに思いをはせずにはいられません。
官僚の仕事への見方が少し変わる。そういう一冊でした。
こんな人に読んでほしい
まず、公務員として働いている人。自分の職場の話として読めるはずです。共感するか、それとも、うちはまだマシだ、と感じるか——どちらにしても、何か引っかかるものがあると思います。
次に、「官僚=既得権益」とざっくり思っている人。批判すること自体を否定しているわけではありませんが、構造を知らないまま批判するのと、知った上で批判するのとでは、考え方の精度が変わってきます。本書はそれらを知るための材料にもなるでしょう。
それから、就活中の学生。官僚を目指している、あるいは候補として考えている人には、読んでおいて損はない一冊です。理想と現実のギャップを、入省前に把握しておくことには大切でしょう。
政策論や行政論に関心がまったくなく、物語として読みたい人には向かないでしょう。本書はあくまで元官僚による提言書であり、小説的な面白さは期待できません。
まとめ
告発本の性質があるかとおもいきや、内側からの告発ではなく、「内側からの制度設計図」のようなものだと思います。
実態を伝えるだけの内容ではなく、著者は問題をピックアップしながら、同時に解決策を提示しようとしています。その姿勢は誠実だし、元官僚としての矜持のようなものも感じます。しかし、これらの提言はいつ誰に届くのでしょうか。
実際に業務にあたっている官僚は、おそらく問題意識を持っているかもしれません。政治家には、届かないかも。その他の国民が例えば一つの手段として、本書を通じて問題意識を抱えたとして、そこからの道のりは長いでしょう。著者もそれはわかっているはずで、だからこそ本書をしたためた、のかもしれません。

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